ちょうど博論を出したタイミングということもあり、博論以降の研究内容について、少しずつ考えています。その過程で、次の文章を読みました。
The Role of Doubt in Conceiving Research: Reflections from a Career Shaped by a Dissertation
Stanley Presser, Annual Review of Sociology, 2022, 48, 1-21
Annual Review of Sociology の序文として掲載されていた、Stanley Presserの自伝です。Presserは社会調査法の分野で有名な研究者です。
前半には博論から現在に至るまでの彼の研究遍歴が、後半では、現在の博士課程教育に不足している内容と、その改善案が示されています。この後半部分を興味深く読みました。
Doctoral education’s flaw
Presserは、博士課程教育の欠陥として、研究計画の立案に関するフォーマルな指導が不足している点を指摘します。多くの博士課程では、最近の先行研究や理論・方法については指導される一方、リサーチ・クエスチョンを定めるプロセスは「特異で神秘的な」ものになっており、これが博士号を取得するうえでの困難になっていると言います。
この問題を克服するために、彼が提示するキーワードが「失敗(failure)」や「疑い(doubt)」です。すべての科学的知識は不確実なものであり、だからこそ、そうした知識を疑い、失敗の可能性を考えることが、魅力的な研究計画を思いつくヒントになる。しかしながら、現在の大学院教育では、既知の知識の伝達のみに重点が置かれており、その知識を疑うことに注意が払われていないことを、彼は問題視するわけです。
ここまで読んだところでは、「研究計画を立てるプロセスの神秘性を、既存の知識を疑うプロセスの神秘性にずらしているだけでは?」と思っていました。しかし、Presserは、知識を疑うことから研究計画の立案につなげる教育方法も、具体的な形で示しています。いくつか抜粋します。
- 時期やテーマ、掲載誌は似ているものの、引用回数が大きく異なる2つの論文を比較し、影響力のある研究の特徴について議論する。
- 現在の知見とは異なる、過去の有名な研究を読み、分野のコンセンサスがなぜ/どのように変化したかを議論する。
- 研究を批判的に読む。
- ただし、学生に「批判的に読みなさい」というだけでは難しい。そのため、次のステップで指導する。1. 論文のRQを読む、2.論文の続きを読む前に、そのRQを解く理想的な方法を考える、3.そのあとに論文の続きを読み、2とのgapから研究の限界や欠点を考える。
- データから論文に掲載された表を再現することで、分析の際におかれていた仮定と、その影響を考える。
- Annual Reviewに掲載されている、研究者の自伝や、研究遍歴のエッセイを読む。あるいは、教員自身が、いかにして研究課題を発見し、その課題を追求したか、あるいは諦めたかを説明する。
研究プロセスを定式化する
米国の大学院教育にはまったく詳しくないですが、周囲の状況を見聞きするかぎり、現在の日本の大学院でも、Presserの問題意識はそれなりに当てはまるのではと思います(少なくとも私と同じ分野では)。
私自身も、Presserと同じく、研究プロセスはもう少し「脱神秘化」されてよい――定式化できる部分はしたほうが、いい意味で「ラク」になると感じています。
博士論文を執筆する、というプロセスもその1つです。D2の秋に博論執筆に取りかかる際、私はまず、博論執筆に関するテキストを読むことからはじめました。新しい統計ソフトを使うときに、まずソフトのマニュアルを読むように、博論を書くという新しい仕事の場合も、まずそのマニュアルを読むべきだと思ったからです。結果的に、これらのテキストは、博論の執筆プロセスを大いに助けてくれました。
Presserが論じるように、研究課題を見つけるプロセスについても、
研究課題を見つけるプロセスがブラックボックスになっている
→研究課題は、既存の知識を「疑う」ことから発見されることが多い
→ならば、既存の知識の習得だけでなく、その「疑い方」も大学院教育の指導に加えよう
のように「脱神秘化」することは、理にかなっていると思います。
その一方で、研究課題の発見は、実際にどの程度まで定式化できるのか、という点は気になりました。Presserが挙げている教育方法の一部は、学部〜大学院教育で経験したことがあり、先行研究との差異化を考える場面などで大いに役立ちました。しかし、自分の経験を振り返るに、研究課題の発見は、めぐり合わせや運によるところも大きいように思います。「疑い方」のフォーマルな指導が、研究テーマの考案にどのくらい役立つかは、領域や個人差によるのかもしれません。
また、そもそも研究テーマの発見を、どこまで定式化すべきかという論点もあります。既存の知識の疑い方がフォーマルな指導に組み込まれることで、「疑いやすい」RQの量産につながる可能性もあります。これは、その学問領域にとって、歓迎すべき事態とは必ずしもいえないかもしれません。
博論以降の研究――基礎研究と応用研究
とはいえ、博士論文執筆は、時間や資源の面で、制約の多いプロジェクトです。そのため、ある程度「疑いやすい」RQを設定するのも自然なことだと思います。私も、執筆途中に思い当たった「疑いにくい」論点――正確には、疑問に思いながらも、研究課題として設定することが難しい論点――はいったん脇に置いて、ひとまず博士論文を完成させることを優先しました。
博論以降は、このような「疑いにくい」論点にも、時間をかけて取り組んでいければ、と考えています。もちろん、博論で行った実証分析の延長として、着手したい課題もいくつかあります。後者を自然科学における応用研究とするならば、前者の課題は、どちらかといえば基礎研究に近いかもしれません。
残りの人生で、研究に割ける時間は、いま思っているよりずっと少ないのかもしれない、と最近は考えています。応用研究にまじめに取り組むだけでも、あっという間に10年、15年と経つのでしょう。せっかくの研究時間は、悔いのないように使いたいですし、私の場合は、基礎研究にも相応の時間や資源を割ければ、と今のところは考えています(もちろん、言うは易し、ですが)。そんなことを考えるきっかけになった意味でも、このタイミングで読めて良かった文章でした。